はんなり時間

はんなり時間

好きなものについて。
本と、京都と、食と、cafeと、海と、旅と、沖縄と、家族とかについて。

Amebaでブログを始めよう!
みなさんこんにちは。
半年に1回という、私の美容院の頻度と同じペースでの更新となっておりますこちらのブログですが。
このたびですね、新ブログを設置しました。
いろいろ勉強をかねて、word pressで。
ドメインまでとって。
すごくないわたし。うん、すごい。
ぜんっぜんよくわかってないけど。
詳しい人いろいろアドバイスください。

と、いうわけで、できるだけ頻繁に更新していきたいと、思っています。
つたないブログですが今後ともよろしゅうに。

新ブログ↓
http://mushiko.com/

みなさん知ってましたか。
このブログの存在を。
いやなんなら私はブログという言葉すら忘れていましたが。

息子氏の出産後の育休中だったかに50音ブログ書き始めてですね。
まあ軽くたぶん5年近くかかってるわけですね。
なんてペース⭐︎

そして、「らりるれろ」の存在を忘れ去り、
先に「わおん」で書いてしまったもんやから、
もはや何がなんだかわからなくなっていますが、
この50音シリーズ、しめはこちら、「ろ」です!!
そして何を書くかと思いきや、
「ロジックチャート書いてみ。」です。
まじでなんなの。


こちらですね、先に説明しますと、
学生時代、当時悪友であったところの現オットが、
ゼミの議論中に私に冷たく言い放った言葉です。
まじやなやつ。
こいつとは一生口聞かないと思いましたね。
なんでも論理的思考で世界がまわってるわけじゃない!
人の心もわからないこいつは鬼だ!!!
と、思ったものです。
その10年後ほんとにこの人が隣で鬼のお面をかぶって自分の子供たちを追いかけ回す姿をみて爆笑してるとはつゆしらず。。。


まあいろんなことがあってこのやなやつはオットになり、
ロジックチャートなんて言葉は家庭では使わなく。。。
なったように思えるじゃないですか。
ロジックチャートや論理的思考なんて、
そんなかたいものを家庭に持ち込んでる場合じゃないと思うじゃないですか。
まあもちろんそんな言葉を投げかけられたことはないですが。
ないのですが。
だがしかし。
このロジック大好き人間と生きて行くにあたり、
けっきょくロジックなるものとは一生付き合っていかねばならぬのだ、と、
気づきました、最近、やっと、ようやく。


ご存知の方も多いかと思いますが、
私たち夫婦はですね、同級生カップルだったこともありまして、
それはそれは喧嘩の多い夫婦でした、かつて。
いや、つい1年前くらいまで。
それがここ最近、ほんっっとうに大きいけんかをしなくなった。
それはなぜかと言うとですね。
私が感情に任せてものを言うことがなくなったからです。
そう全てはわたしのおかげ。
えらいわたし。(うるさい)


しかしですねこれにより気づいたことがたくさんあって。
感情的にものを言わない、
というのは、
感情を抑え込む、
というのとは全く違う。
嬉しい、楽しい、大好き、
そういったポジティブな感情は、
それはもう感情のままにまっすぐ表現していいものだし、
表現された方もとても嬉しいものだと思うのだけれど。


ネガティブな感情、
特に悲しみ以外のもの、
怒りとかそういったものというのは、
感情的に伝えたところで相手に嫌な思いをさせるだけで大事なことは何も伝わらないわけですね。
そんなときにもし
「ロジックチャートかいてみ。」
なんて言われようものならもうこれ軽く悲劇しか思い浮かばない。


だからネガティブな感情こそ、
ほんとそれこそ、できるだけ論理的に考えることが大事だと思うのです。
と、いうことに最近ようやく気がついた。
「反対意見」の論理は、
とても飛躍しがちだから。
誰かや何かを批判している言葉や文章って、
基本的にどれもものすごく非論理的だったりします。
で、冷静な人から見ると、
とても滑稽に見えてしまったりする。
それって世の中に本当によくあることやと思うんやけど、
ごく個人的な人間関係においても、
そういうことは起こりがちだと思います。


だから「嫌だな」と、思ったことこそ、
その場で言わずに、
自分も相手も冷静なときに、
できるだけわかりやすく、説明する。
別にロジックチャートは書かんでいいけど。
(その言葉自体は相当根に持ってるらしいわたし。)


で、うちのオットはですね、
ほんとうにそんなやなこというヤツなんですけど、
根は優しいので、
わたしの言葉と感情をですね、
冷静なときであれば、
非常に論理的にまとめて説明してくれるんですね。
まあそれが仕事ですからね。
まいちゃんはこう思ってるんだよね、
で、そういうときはこうすればいいんじゃない、
みたいなアドバイスまでくれるわけですね。
なんて親切。
しかも的確。
さすがオットである人。


しかしその言葉を引き出すためには、
こちらがある程度冷静で、
論理的でなければならない。
で、わたしはしらずしらずのうちに、
そのくせがついて、
だいぶ訓練されてきたような、気がします。


もちろんいうまでもなく、
これは仕事でも必要なことでありまして。
まあ仕事で感情的に怒ることなんてそうないけど。
でも生きて行くということは、
周りの人たちとコミュニケーションをとり続けるということだから。
近い人だからこそ、
ほんとうに自分の気持ちを理解してほしい相手にこそ。
ロジックチャートは必要なわけですね。


ってことをたぶん10年前にとあるプロジェクトでロジックチャートとともにH報堂の方達に教えてもらったと思うんですけど、
それが身を持ってわかったのは、
31歳になった今だというお話です。


いやーーーー人生に無駄ってないな。
日々勉強。
勉強きらいやけど。
なにそれ⭐︎


と、いうわけで以上で50音blogはおしまいです!
いやー長かったですね!(はーと⭐︎)
書くことは続けてゆきたいので続けますのですが、
なんかもうちょっとすっきりした体裁のブログに移行したいなと思っとります。
でも最近の動向がまったくわからんのでちょっと調べてみよーと思います。
ロジックチャート書きながら。
いや書かない。




オットがいっていたのだけれど、

高校生のときにアメリカへ留学したときと比べると、

驚きが少ないと。



それはもちろん年齢によって経験を重ねてきたからでもあるだろうけれど、

東京で生活していると

都市というものに慣れてくるのかもしれない。



地方へいくと、

国道やバイパス沿いの景色がほんとうにどこも一緒で

妙なノスタルジーみたいなものを感じる。

つまり、私の実家の周りの

京都の片田舎の国道沿いも

オットの実家の周りの

熊本の国道沿いも

同じような景色が広がる。



ので、

熊本のオット実家へいったときも、

妙になつかしーーーい感じがする。

関東のちょっと田舎の方へいったときもおんなじ。



それとおんなじことがもしかすると世界中の都市で言えて、

TokyoとNew Yorkと例えばParisは同じような感じがするのかもしれない。

逆に言えばそれだけ東京だって都市の力のようなものをきちんと持っている。

気がする。



とはいえニューヨークがニューヨークたらしめるところは例えば

石造りの建物たち。

年月が経つほどに

味わいを増す建築物。

日本が地震の国だからなのか

木造建築と火事が切り離せられないからなのか

もしくは日本人の価値観として

「新しいもの」にこだわるからなのか

壊す、新しく建てる、

という建物が大多数で、

ニューヨークの街並みのような味わいはどうしても出ない。

どちらがいいとか悪いとかではないけれど

でもやっぱり古いものっていうのも私は好きだ。

表参道ヒルズもいいけれどもやっぱり同潤会アパートがすごく好きだった。

と、思ったりはする。



それにしても。

ニューヨークの人たちは子ども連れにとてつもなく親切です。

というか、

敵意がない。

子どもを連れている人に対して。



日本人だって、

基本的な親切心というか

それこそおもてなしの心だったり

ていねいさだったり

そういうのはほんと世界を見渡してもピカイチだと思う。

世界で一番親切な国だと思う、私は。

「都市」の余裕なのかもしれないけれど、

京都よりも東京の方が親切だ、たいがい。



それでも、

だからなのか、

なにかどこかで不満をためているからなのかなんなのか、

ひとたび何かの感情がこじれて「敵意」になったときの

鋭さがけっこうえげつないなとここのところ思う。

ヘイトスピーチとかまさにその典型で。



思うに、こちらではNoという意思表示が当たり前だというのもあって、

例えば黒人のデモにしても、

「暗黙のタブー」みたいなものが少ない気がする。



日本は最近、そういうものが少し多い気がしていて。

あまり大声で、

意見を言えないような風潮がある気がしていて。

そういうストレスは変な形にまがって発散される。



それが例えばヘイトスピーチになり

ベビーカー論争になる。



自分とちがう立場を想像すること。

ちがう価値観を尊重すること。

生きていくってそういうことなのになあ。

忘れがちになってしまっている気がする、

今日この頃。



もちろん一方でアメリカには根強い差別も残っているわけで、

アメリカがいい、日本がいい、

そういうことではないんやけれども。

でも、

なんかこう、

ここのところの日本の窮屈な感じは、

どうにかできるんじゃないかなと思ったりします。

もうちょっと深呼吸をして

ストレッチをして

もう少し自由にみんなが生きてもいいんじゃないかなあ。

と、

自由の国アメリカで思います。



と、いうのは簡単だけれども

まずは自分から。

ここで感じたことをきちんと心に留めて。

他人への想像力をきちんと持って、

リラックスして、

また日々をいとなんでゆきたいと思います。



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さてこれは、うちの4歳児が描いた天才的な絵の数々です。

上から時系列に持って帰ってきたもので、

一番下は先週末に持って帰ってきたもの。



一番上は夏頃に持って帰ってきたもの。

さてお気づきでしょうか。

下にいくにつれて格段に成長していくのを。



一番上のは何の絵かわかりません。

たぶんピカソには理解できるんやろうけど、

まあ私もピカソなみに天才ではあるけれども、

ゲルニカ並みの作品はまだ残せていないのでピカソまではまだ遠いのであろう私には、

ちょっと彼(息子氏)の芸術性のすべては理解できません。



でも真ん中は明らかに顔でしょう!

人の顔でしょう!

ちゃんと!

目!鼻!口がついている!!!!!

天才なんじゃないのうちの子!!!!!!



さらに一番したは!!!

身体までついている!!!!

顔から!!!!

胴体と手がはえている!!!!

足はまだない!!!!

おばけだ!!!!!

まあそんなことはどうだっていい!!!!



私はこの作品の数々を見て、

かつて六本木の新国立美術館で見た、

モネの作品展を思い出しました。

あれは私がみた美術展の中で仏像系をのぞくと一番感動した美術展なんやけど。

モネの作品が時系列に展示されていて、

最初は人物画とかも描いていた作品が、

だんだん風景画が多くなっていって、

たくさんの睡蓮の絵につながっていく様子。

時系列でみていくとほんとうに、

それらの作品が「洗練」されていくのがとてもよくわかった。

天才も成長してゆくのだと私は妙に感動したのを覚えています。



そう我が息子氏も!

モネのように確実に成長し洗練していっている!!!

やっぱり天才だ!!!!!

と、私は胸が震えました、まじで。



子どもの絵っていうのは、

こんな風にとてもわかりやすく成長をあらわしてくれます。

そこには結構、感動的な喜びがある。

赤ちゃんじゃなくなって、

まあいっちょまえの人間になって、

もう寝返っただのたっちしただの歩いただのしゃべっただのという、

そういう成長は見られなくなって、

でも幼児たちは、こういうところで成長をしっかり見せてくれる。

でもここでもし、

この絵を、「息子氏の数ヶ月前の絵」と比べるのではなく、

「ほかの誰かの絵」と比べてしまったら。

この喜びにはもしかしたら目を向ける余裕がなくなってしまうのかもしれない。



お友達の絵はもう胴体から足が出てるのに!

うちの子の絵はまだおばけだ!!なんてこと!!!

と、思ってしまったとしたら。

我が子の絶対的な成長を喜ぶチャンスを逃してしまう。

これってものすごくもったいないことじゃないかと思うわけです。



結局なんだってそうで。

この先こういったことはたくさんあるのだろうと思う。

テストの点数が前回よりよくなった。

でもお友達のあの子よりは今回も悪い、とか。

希望してた学校に進学できた。

でもあの子よりも偏差値は低い、とか。

まあこんな極端でなくても、

日常のささいなことでも、

こういうことって起こりがちかもしれないなと、

ふと思ったのです。



でもそういうときに、

ちゃんと、

我が子自身の絶対的な成長に目を向けて、

一緒に喜んであげたいなー

と、思ったりします。



自分自身についてだってそうなんだよね。

SNSで、

たーーーーーーくさんの

誰かの「良い面」の情報が入ってくる時代。

そこが世界の、社会のすべてなんじゃないかと錯覚すらしてしまいそうな時代。

ついつい自分じゃなくて、

他人ばかりに目がいってしまうかもしれない。



でも自分を認めてあげられるのは、

結局自分自身でしかない。

自分の毎日が、

ささやかでも小さなしあわせにあふれていることに、

かけがえのないものであることに、

目を向けてあげられるのは、

自分自身と、そばにいる家族でしかない。



となりの誰かの「いいね!」された生活じゃなくて、

自分の目の前の、

必死のぱっちで子どもたちを追いかけ回して怒鳴り倒して

納豆まみれのむすめ氏を抱きかかえた瞬間におニューのお洋服を汚して

まあそんな毎日に、

目を向けて、

慈しんで、

過ごしてゆこうではないかと、

息子氏のモネもピカソもびっくりの作品を見ながら思う水曜日。



そうまさに!ありのーままのーーーー
(そうですむりやりです)



それで、

納豆でべたべたになったお洋服ってどうやって洗えばいいんですかねー(遠い目)






ルブタンの靴がなぜかわいいかというと半分くらいは、

ソールが赤いからだ思う。



だって。

靴底が。

赤いんですよ。

たまらん。



ブランド価値とは

物理的価値と

エモーショナル価値により成り立っていると言ったのは誰でしたでしょうか。

そう私の卒論です。

はいすみません。



物理的価値は最低限備わっているべきもの。

差別化において重要なのはいかにエモーショナル価値を創造してゆくか、

ということらしいです。

だいたいコトラー様が言ってることですね。



ルブタンのヒールは。

まあそりゃああんだけ高い靴なんやから、

お手入れすればそこそこ長く履けるし、

まあ幾分は。少しは。疲れにくい。かも、しれない。

そのあたりは、

物理的価値なのかも、しれない。

そんなこと言ったって安物のぺたんこ靴の方が全然足は疲れませんよ、

ヒールなんてそんなものです。

放課後の音符で山田詠美は、

「本当のいい女というのは、

ハイヒールを履いても疲れない足を持つ女」

といったようなことを言っていますが、

私は疲れます。

全力で。

疲れます。



でもヒールが好き。

そしてルブタンのヒールが好き。

なぜならば。

ソールが赤いから。

ただそれだけで気分があがるから。

それがすなわち。

エモーショナル価値だそうです。

ムシさんの卒論によると。



こんなに気の利いたブランドアイコンってありますか。

ヴィトンのモノグラムじゃなくて。

フェンディのFFじゃなくて。

靴底が!

赤いだなんて!!(しつこい)



そもそも。

赤い靴。

というのは、

正義です。

赤い靴というのは文句なしにかわいい。

赤い靴は永遠に。



それを靴底にブランドアイコンとしてもってきたルブタン氏の

そのセンスが

発想が

もうすばらしすぎて

私は一生彼についていきたい。

会ったことないけど。



ブランドものを身につける。

ということは、

なんだかとても絶妙なバランスの上で成り立っていることだと。

私は思います。



結局のところは自己満足の世界です。

でも自己満足。というのは、とても大切なことで。

結局、

自己が満足しているかどうかということは。

つまるところその日1日をハッピーに過ごせるかどうかということであり。

大切なプレゼンの日に自信を持って挑めるかということであり。

新しいママ友の世界に勇気を持って飛び込めるかということであり。。。

(いやそんな局面迎えたことないけども。。。)



自分のテンションを少しだけ高めてくれるもの。

そしてその「ブランド」が、

どれだけ主張してくるかというところも、

絶妙なバランスの上で成り立っていると思います。

自分だけにわかるもの。

見る人が見ればわかるもの。

だいたい日本人の7割くらいはわかるもの。

とかとか。



そのどことバランスをとっていくかということは

それはもちろん個人のセンスと好みの問題です。

どの辺りが一番自分のテンションをあげてくれるのか。

ハッピーにしてくれるのか。



私にとってはルブタンのソールは、

どんぴしゃなバランスでテンションを高めてくれるもの。



だから私はまた今年もバカみたいに靴を買って

#マタクツカッタノと言われながら生きてゆくのです。

まあこれはもうたぶん。

赤いソールが悪い。


忘れ去られたらりるれろ。
本日は「り」。


ファッションの流行には疎い方だと思いますかなり。
流行のブランドとかも全然知らんし。
ファッション雑誌をあまり読まないので、
そもそもブランドに疎い。



加えてあまのじゃくなので、
「今年はこれが流行」みたいなことを聞くと、
持っているものでも
身につけるのが恥ずかしくなってしまったりとかなんかしちゃったりとかして。
めんどっちい話だ。


とはいえ。
とはいえ。
とはいえ。


まったく気にならないかというとそんなことはない。
全然意識してないのかというとそんなことは全くない。
じゃあ自分にとっての流行ってなんなんだろう。
と、考えてみて。


それはつまり、
ちょっと新しいものに挑戦するチャンス。
そういうわくわくを楽しむもの。
なんだろうなと思う。


どうでもいいんですけど、
私は今このブログを、
近所のスタバで、
MacBook Airで書いています。
どうよ。
かつてオードリー春日が朝日新聞に寄せたすばらしいコラム
「機上で原稿を書く俺ってかっこいい」
なみのこの状況。
もちろん。
エルゴでむすめ氏だっこしてますけどね。
あばばばばばばばばばばばば言ってらっしゃいますけどね。
まじかっこよくて泣ける。
重い。


あーそうむすめ氏で思い出したんですけど。
こないだこの人、
夜中に授乳してたらおもいっきり吐きましてですね。
私がそれを一身に受けたので、
ベッドにはまったく被害もなくてグッジョブわたしだったんですけど。
真夜中にパジャマそう取っ替えして洗濯して。
もっかい寝かしつけの授乳してたら。
おもっっっっっっきり顔をひっかかれた。
くちびるの上に引っ掻き傷が。。。。。
恩を仇で返すとはこのこと。
朝起きてオットが爆笑してた。
いだい。


とまあ話は飛びましたが。
そんでスタバで大泣きされてあやしまくっても寝てないむすめ氏を持て余してますが。
私の中では寝る算段だったんですけど。
育児とは思い通りにいかないものですねはーと。


なんの話やったっけ。
そうそう流行の話。


そういったわけで、
流行には疎いしあまのじゃくなりに、
はやりものを自分なりに取り入れるのは楽しいというお話。


例えばこの秋冬は。。。
何がはやってたっけちょっとやっぱりわからへんけど。
あ、スニーカー!とか!
いや流行なのか自分の中でのブームなんかちょっともはやわからんけど。
たまーーーーーーにオールスターを履くくらいやった私が、
スニーカー何足買ったんやろう。
覚えてないけどいや思い出したくないけどいやそんな買ってないよ。
まあほらルブタンに比べたらかわいいもんじゃないですかスニーカーって!
だからつい。。。
ほんとつい。。。
けどやっぱりそれによって。
今まで楽しまへんかったようなカッコができて楽しい。
あと、普段の服装で、
靴がスニーカーになるだけですごい新鮮やったりね。


基本的にはたぶん、
ベーシックなものが好きで、
例えばグレーのカットソーってものがたぶん好きで好きで好きで仕方なくて、
グレーのカットソーばっかクローゼットにあって、
てゆうかたぶんグレーが好きなのでグレーばっか持ってるんですけど、
そしてそれを着ているともちろん落ち着くわけですけど、
それを着てるだけじゃおもしろくないし、
同じグレーのカットソーにしても、
同じものとばかり合わせてても面白くない。
そういうときに、
いつもはパンツと合わせてたけど、
そうそう今年ならあれだ、サーキュラースカートに合わせてみようとか。
そういう新鮮なものに挑戦するのって楽しい。
あ、スカートというのはこの秋冬久々にはいたものだったかもしれないそういえば。
たぶん流行だこれは。
ですよね。
たぶん。


ちなみに2014ssの流行と言えばたぶん。
ビルケン的健康サンダル(?)をあちこちでみかけるんですけど。
いろんなとこでみかけるセリーヌのサンダル、
試着してみたけど10万円弱してたよね。
10万円の健康サンダル。
おしゃれって奥が深い。。。


まぁそういったわけで、
流行のものというのはもちろん、
ハイブランドにしてもファストファッションにしても、
そのシーズンたくさんお店にならぶ。
だから、
選択肢がたくさんあって自分に似合いそうなものを見つけやすいし、
挑戦しやすい。
何事も普段とちょっと違うことへの挑戦って楽しいしね。
私の中で流行のものってそういう位置づけのような気がする。


こないだテレビで、
おしゃれすぎるシニアたち、
っていう特集をやってて、
おされなおじいちゃんおばあちゃんがいっぱい出てきてた。
もうそのおばあちゃんがかっこよくてかっこよくて。
「気分がすさんだとき、
ファッションがいつも元気を与えてくれた
若い頃からずっと、
ファッションはそういう存在」
って言ってて。


そうなんよねーまさに。
あんな風なおばーちゃんになりたいなあと思った。


おばあちゃんたちは、
もちろん若者の流行をそのまま追うわけじゃなくて、
「小柄だからボトムにボリュームを持ってきます」
って、ボリューミーなロングスカートをはいてたりしたんやけど。
「でも若い人の流行も、すてきだなあって思います。
そのままは着られないけど、参考にしたりはします。」
って、
言ってはった。
すてきだ。
そのスタンスめちゃくちゃすてきだ。
あ、あとかっちょいいおじいちゃんが言ってはったんやけど。
「奇抜な格好をすることは簡単。
奇抜な格好をするわけじゃなくて、
少し人と違う洋服を選んでたい」って。
これテーマだな。


私もおしゃれなかっちょいいおばあちゃんになるべく、
ほどよく流行を楽しみながら、
自分に似合うものをみつけていきたいと思った次第です。


そうそう、
手帳のなりたい自分の羅列の中には、
「ひ孫の顔を見るまで生きる」
って書いてある。
この先死ぬまでずっとファッションを楽しむためには。
なによりもまず、健康をちゃんと維持せねばならないわけです。
心も身体も健康に美しく生きること。
永遠のテーマです。



えーーーー衝撃のお知らせをいたします。

50音ブログですが。

まさかとは思いますが。

「ら」行をすっとばしておりました。

まっっっっっっっったく気づきませんでした。

ごめん。ら行。



というわけで、

ら行、書きたいと思います。

いやーーーー2014年もすっとぼけてるわー。



ライフスタイル。

に、関して。



もう10年以上使っている手帳があるんですが。

ハタチのお誕生日に、

お母さんに買ってもらった赤い革の手帳。

もうおんぼろなんやけど、

これだけはもうずっと、同じものを使っています。



それに、

自分の夢とかやりたいこととか、

思いつくままに箇条書きでばーーーーーーと書き出して、

それで自分の人生のちょっとした目標みたいなのをたてていたのですが。



読み返してみると結構、

かなってたりしてびっくりする。



まあ、

「パン焼き機能がついたオーブンレンジが欲しい」

とか、

「大きいMacが欲しい」

とか、

「亀井ゼミのみんなとずっと仲良く遊ぶ」

とか、

「えーこさおりゆいなっちちかあつことずっと仲良く遊ぶ」

とか、

「帰宅後30分でごはんを作れるようになる」

とか、

そんなんがいっぱいやからかなうんやけども笑。



でもやっぱり、

そんなの今はぜんぜん現実味がないこととかでも、

自分の手で書き出してみるっていうのは、

すごく大事だなと改めて思ったりした。



ので、

2014年版のものを今、

書き出している最中です。

めっちゃ楽しい。



で。

それを書いたのは8年前くらいなんやけど、

もちろんそのときとは、

自分の中での優先順位のようなものが変わってきているなっていう実感もあって。



そのときの私のテーマとしては、

そのときの彼、

今のオットに、

依存することなく、

自分でなんでもこなせるようになる、

ということやったらしい。



しかしどうやら私はそうなりたいがためにですね

ちょっと強くなりすぎたっぽくてですね♡

気づけばこんなツマになっちゃってたもので。

今後10年は、

オットにかわいいなと思われるツマでいることが目標です(はーと。にこっ。)



そして、

「きれいに整えられたかっこいい部屋に住む」

というのもなかなか大きかった、らしい。



これはもうつい最近までもとても大きくて。

なんか、リビングが散らかってるのが、

どうも落ち着かなくて。

だからオットの出しっぱなしのあれこれに、

あーだこーだよく言ってたんやけど。



これね私ふとあるときに気づいて。

もちろん、きれいに整えられたお部屋っていうのは気持ちいい。

それが維持できるならそれにこしたことはない。

ただ、

「そうじゃないといけない」

「そうじゃないと落ち着かない」

って思ってしまうのは、

なんかちょっと、

違うんじゃないかと。

自分で自分の首をしめているというか。

「きれいに整えられていないと落ち着かない」

っていうのは、

それってほんとに

「落ち着いて」生活してるわけじゃないよなあ、と。



結局そんな状態で、

好き放題散らかしていくオットと向き合っていても、

そりゃイライラするだけで。



そこで。

私は。

一週間、あらゆる家事を放棄してみました。

やりたくないことはやらない週間を一週間作ってみた。

そしたらもう。

人生やりたくないことだらけ。

何なら朝イチにむすめ氏のおむつをかえることだってめんどくさい。

で、

そういうのめんどくさいと思ってしまう私ってなんてだめなんだ!

と、思うのを、

やめてみました。

すなわち。

こんなめんどくさいことを毎日毎日やってる私ってなんてえらいんだ!!!!!!

と。

思うことにしました。



そしたらもう。

私ってえらいのなんの。

朝まだ眠い中でむすめ氏がわけわからんことを言いながら泣いてるのをなだめて、

ねっむいのに授乳して、

おむつかえて、

息子氏がまたおねしょしたーーーーって言うのを

着替えさせて

シーツ洗って

その間に朝ご飯作って

子どもたちとオットに食べさせて

その間にお弁当まで作って

やばい。えらすぎる。



その上、

オットが散らかしまくったものと、

子どもたちのおもちゃを片付けて、

洗濯もして掃除もしてごはんも作るなんて!

もはや神!!!!!!!!!



。。。と、

あほらしいと思うかもしれませんが、

思うことにしてみたんですよ。

とにかくなんでも。



そしたらね。

なんか、

お部屋がちょっとやそっと散らかってるのなんて、

たいして気にならなくなってきた。

洗濯がおっくうで明日にまわすことなんて、

たいしたことないやーって、

思えるようになってきた。

で、そうすることで何がすばらしいかって、

オットにとても優しくできるようになった。


で、そうすると、

なんかね。

また、掃除したり洗濯したり、

お部屋を整えることが、

そんなにめんどくさくなくなってきた。

そして、

めんどくさいならめんどくさいなりに、

すっと楽にできる方法が思いつくようになった。



なんというか、

大げさやけど、

生きることがとても、

楽になった気がした。



私は基本的に、

まあご存知のとおり、

てきとーーーーーーーーな人間です。

そう、「ら行」をすっとばすくらい。

もうこれはね。

わかりきったことなんだ。

ああ開き直ったさ。

人に迷惑をかけるレベルのてきとーさとかは

まあちょっと工夫して避けるべきやけど

(みなさんごめんなさい♡)

無理して、

例えばちょっとデキちゃう女風を装うのなんて

もうね自分もしんどいし

何より無理をすると他人に対しても厳しくなる。

これほんとでかい。

無理して生きるがために、

他人に対して厳しくなる人って、

ほんとたっっっくさんいる。

そんな人生はおもしろくない。



自分らしくっていう言葉は、

なんとなーーーく好きじゃなかったけど、

でもやっぱり最近は思う。

私は私らしく、

肩の力を抜いて生きていたい。



それに人の短所って、

それは裏返して長所でもある。

それは誰にとっても絶対そうなんだ。



例えばすぐ悩んじゃう人は、

それは逆に言うと、

人のことをたくさん考えてあげられる優しい人だということ。



そういう自分の短所を、

長所でもあるって、

本気で受け止めると、

これまた、

人生が楽になる、気がする。



「お部屋をきれいに整えていたい」

っていうのは、

もしかすると、

自分の苦手なことや、

自分の短所だと思っていることを、

見ないようにするというか、

それを短所じゃないよ、

って、自分に言い訳するためってところがあったのかもしれない。



お部屋をきれいに整えておくことなんて、

好きでも得意でもなんでもないけど、

できるって自分で思いたかったのかもしれない。



ほんとに心から好きなこと、

やりたいこと、

そういうのが見えてきたら、

ほんとうに心地よく暮らせる。

私は、

かっこ良く暮らしたいんじゃなくて、

心地よく暮らしたいんやなって、

ライフスタイルとして大切にしたいのはそっちやなって、
改めて思ったりした。



それは、

きっとこの先選ぶものすべてにあらわれてくる気がする。

着る服だってそう。

もう最近は、

肌触りの良い服を選ぶようになってきた。

どんなに形が気に入っても、

着心地の良くないお洋服は着たくないなーとか。



でもそれだけにとらわれるんじゃなくて。

たまにはすんごいケミカルな(ケミカルな?)お洋服とか着たくもなるきがするし。

そこは、柔軟に、柔軟に。



自分らしく、

肩の力を抜いて生きること。

これはこの先大切にしていきたいことのような気がする。



あとね私すごいいいことに気づいたんですけど。

どれだけお部屋が散らかっていようとも。

その散らかっているモノが、

自分のお気に入りやと、

全然気にならないわけです。

つまり。

これからも私はお気に入りのものを買いたいと

思う次第であります。



結局物欲かよっていう。



こどもたちと一緒に20時半に寝落ちったら、

久々に5時前に目が覚めた。

そして子どもたちはまだ寝てる!

(そしてオットはまだ仕事から帰ってきてないんやけどどういうこと!)

と、いうわけでコーヒー飲みながらブログ書く。

至福。



さて。

ぶんをかく。

ということで。



50音ブログ「を」と「ん」をむりやりくっつけました。

てへ。



文を書くことが、

やっぱり好きだなあと思います。

文を書くこと。

言葉をつむぐこと。



私の言葉はとても適当だし

言葉を業にする会社に勤めているにしては

文章もめちゃくちゃやし

たぶん校閲にまわしたら真っ赤になって返ってくるし笑。

それでもまあ昔から、

何かを書くことは好きです。



それこそ校閲の仕事をしていたお母さんは、

私の書くものを読んでいつも、

まいちゃんの文章ってほんとめちゃくちゃやけど、

なんか心動かされるものがあるわー

って、言ってくれてました。

もう小学生くらいの頃の話やけど。

その頃から文章が変わってなければまあ問題やけども笑。



もともとブログも

日々の記録であり

どちらかというと

自分の気持ちを整理するために書いてたけど、

twitterを始めて

(いや最近ぜんぜんのぞかなくなっちゃったけど)

いろんな人から

文章を読んでもらえる機会もできて、

それで「元気になった」って言ってもらえると

やっぱりうれしいもので。



基本的には思ったことと日々の記録を

つれづれなるままに書いていこくだけやけど、

私の日々の断片を綴った文章で、

誰かが少しでも元気になるのなら

少しでも笑顔になるのなら

それはとてもうれしいことだし、

なんとなくそれは、

私がこの先していきたいことのような気がするのです。



「なんで働くのか」ということを

ちょっと深く考えてみたことがあります。

子どもが生まれる前からずっと、

「子どもがいつか生まれても働いていたい」って、

どこかでずっと思ってた。

それは、自分が人より少し、

妊娠が難しいと言われていたせいで、

心の保険的な意味で思っていたところもあるけれど、

それだけではないなあと思って。



自分には、

子育て以外にもなにか、

誰かを少しだけ元気にしたり、

笑顔にしたりできることがあるんじゃないかと、

思ったからです。



それは、

私が就活をするときからずっと言い続けてた

働くということへの「志望動機」やったと思う。

思い出してみれば。



そしてそれはもちろん

「仕事」という形に限ったことではなくて。



こうして文章を綴っていくことも、

もしかしたらその一つかなあというか、

そうなっていければいいなと思います。



だからこれからも、

ぽつぽつと

文を書いていきたいと思います。

せっかく残せる場がある現代やから。

しょーもないことばっかりまた言いますが

おつきあいいただける方はよろしくお願いします。



とりあえずまた、

日々の記録を残していこうかなーーーーー。




50音に何年かかってるんだという話ですが、
50音ブログもあと少しとなって参りました。
知ってますかわたしはこのブログのモチベーションをあげるために、
MacBook Airを買いました。
物欲というのはすごいものですね。
(ひとごと)
ところでどうするんだあと2音。
まあいいか。


さて「わ」は「ワードローブ」というわけで。


好きなものはなんですかとか
趣味はなんですかとか
そういうことを聞かれて、
ぱっと思い浮かべるものってあんまりないなーとか
思って長年過ごしてきましたが。
どうやら私は服が好きらしい。
まあ結構好きかなーとは思ってたけど、
いやまあ結構というか相当好きらしい。


思い返してみると、
たぶんもう小学生の頃からもうずーーーーーっと好きなんやと思う。
服が。


私のお母さんはお裁縫がめちゃくちゃうまかったので、
(どこいったその遺伝子)
小さい頃三姉妹のお洋服はほぼすべてお母さんの手作りでした。
(ほんとにどこいったその遺伝子)


けどですね私ときたら、
そのうちお母さんに口出しし始めるわけです。
このスカートもうちょっとプリーツ出してとか
丈はもうちょっと短めにしてとか
このワッペンいらないとか。(いらんでしょワッペン)
いやーめっちゃやな顔されてたなー思い出したなー♡
かわいくないなー♡


たぶんそれくらいからもうずっと、
自分なりのこだわりみたいなものがあって、
頭の中にいつも、
こういうのが着たい!
こういうカッコがしたい!
というのがあった気がします。


だからまあやっぱり持ってるお洋服や小物の数も
結構多くて
(靴とか靴とか靴とか)
正直クローゼットの中にどんなお洋服が入ってるのか、
把握しきれてなかったんやけれども。


夏の終わり頃に、
人生で一番大きい断捨離を決行いたしました。
着てない服は売りまくりーの
譲りまくりーの
捨てまくりーの
愛着があったり
思い入れがあったりというお洋服も、
着ないものは思い切って処分しました。


そうしたらもうすっきり。
身も心もすっきり。
気持ちいいのなんの。
手元に残ったのは、
本当に自分が着ていたいお気に入りのお洋服数着のみ。
というわけでまた新たに秋冬のお洋服を買いまくったというのはおいておいてですね。。。


何よりも、
自分のワードローブを把握している、
ということまずそれ自体が、
とてつもなく気もちいい。
朝コーディネートに悩む時間もぐんと減った。
手持ちのお洋服が減ると、
コーディネートを考えるの難しくなるかなとか思ったけど、
全然逆で、
すべて把握してる分、
その中での組み合わせを考えるのがめちゃくちゃ楽しくなりました。


そして、
残ったお洋服をみていると、
なんとなく、
自分の好きなスタイルが見えてきた。


これに関しては私はまだまだ勉強中で、
「自分に似合う洋服」や
「自分のスタイル」っていうのはまだまだはっきりは見えない。
これはもちろん年齢によっても変わってくるんやけど、
その中でも自分の軸のようなものが、
ファッションにはあると思っていてですね私は。
そこがすこーーーーしだけ、
見えてきたような、
気がするのです。


私はほんと小学生の頃からずっと、
女の人は誰でも、
着るものできれいになれると思ってた。
何を選ぶのか。
どこに手をかけるのか。
(お金じゃなくて、手。)
それによって、
絶対どんな人もきれいになれると思ってた。


今もそれは変わってないんやけど、
そのためにはやっぱり、
自分に似合うものを知る、
ってことが、
大切なんやなあと、
30代に突入した今は思います。


なんだってそうなんやけどね。
よくいうけどこれは、
人生と同じだと本気で思います。
ファッションは人生だ。


自分に似合うものは何か。
自分が心地いいものは何か。
何を選ぶのか。


「選ぶ」ということには、
いろんな制約がある。
それはもちろん、
お金だったり、時間だったり、
環境だったり。


例えば私は今期
白い上質なミドルゲージのニットがとても欲しくて
ずっと言ってたわけですが
やっぱりどうしてもじゅにゅー中の0歳児と
あほのかたまりみたいな3歳児と毎日過ごしていると、
白い上質なニットを着て過ごすというのは
ちょっと現実味がない。
だから今期は白いニットは選ばなかったわけです。
(まあYOKO CHANの黒ワンピは買ったじゃないか
あれいつ着るんだよというのはおいておいて。
うんおいておいて。)


けどそういう制約そのものも、
楽しみの一つだったりすると思います。


無限にお金があって
好きなお洋服を好きなだけ買えたら
それはめちゃくちゃ楽しいやろうけど、
それやと自分のスタイルって見つけられへんかもしれへんなと思う。
お金がない中で、
古着を買ったり、
手持ちのお洋服をリメイクしたりしてた、
あの中学生の頃の経験だって、
自分にとってはとても大事だった気がするし。


だからあらゆる制約がある中で、
自分が選んだその一つ一つを、
大切にしていきたいし、
そこから自分に似合うものや、
自分が本当に好きなスタイルが、
見えてくるような気がします。


その上で、
自分が今まで着ーひんかったものを選んだりするのが
最高に楽しいしね。
そういえば私は去年、
オーバーオール
ショートパンツ
スタジャン
あたりにチャレンジして最高に楽しかったです。
この冬はもう一つ
モッズコートを手に入れようとしている次第です。
あとね春は、
膝丈のパステルカラーのひらひらスカートから始めたい。
あー考えるだけで楽しい。


こういうことを考えていると、
きっとファッションは何歳になっても楽しいと思う。
なんなら私は今男児と女児のファッションまで考えられて、
人生で一番楽しいかもしれない。
なんてお気楽な人生なんだとは思うけど♡


これからも自分のスタイルを見つけながら、
いろいろ新しいことにも挑戦していきたいと思います。
ファッションも人生も!




えーっと、あけましておめでとうございます♡
年が明けてから20日もたったなんて信じられない私です♡
はー育休満喫中。


さて。
毎日ブログ更新しようと年末に決めてから、
20日がすぎましたがみなさまいかがおすごしですか。


私は愛するどろわーのセールにて、
昨日入荷したばかりだという、
もちろんセールになんてなるわけないバッグに心奪われまして
お持ち帰りしました。
年始からなにもかわっていません。
セールってこわいね♡


さて本当はこのお話は。
長々と京都に帰っていたときに書こうと思っていたのだけれども。
なんだかうまくまとまらずここまできました。
のですが、
自分的にきちんと残しておきたいことだったので、
改めて書いてみようと思った次第です。


年末年始は、
2週間くらい実家に滞在して、
だらだらして参りました。


わたしのおじいちゃん(息子氏むすめ氏にとってのおっきいじいじ)のおうちは実家の隣にあって、
庭つづきになっているので、
わたしの実家滞在中、毎日何回も顔を出してくれました。


気づけばね。
私が大学進学で家を出てからもう12年。
お母さんが亡くなってから、もうすぐ8年。
結構な月日なんよね。
おじいちゃんとおばあちゃんふたりにとってその年月は、
やっぱり長い月日やったと思う。


私は自分が母になってやっと、
おじいちゃんとおばあちゃんが、
自分の娘である、私のお母さんを亡くした哀しみが、
どれくらいのものやったのかって、
少しだけ想像がつくようになった気がする。


親にとって
自分より先に
子どもがいなくなってしまうということは
もうそれは
なによりもつらいことやと思う。
絶望以外のなにものでもない。


お母さんを亡くしたとき、
いろんな人たちに私は、
「おじいちゃんとおばあちゃんを支えてあげてね」
っていわれた。
けどそのときの私は、
自分が「母」を亡くした哀しみでいっぱいで、
正直
そんなこといわれても、
私だってつらいのにって、
そんな風に思っちゃってた気がする。
そりゃそのときは仕方ないけどね。
あの時は自分にとってもやっぱり、
生きてきた中で一番つらい時期やったから。


けど今は少しわかる。
母を亡くした哀しみも大きいけれど、
娘を亡くした哀しみがどれくらいのものやったか。


あれからの8年間。
どんな思いを二人が抱えながら生きてきたのか、
そこまでは私には想像はつかへん。


ただね。
私が実家へ帰るたび、
なんどもなんども顔をのぞかせて、
息子氏とむすめ氏と遊んでくれるおじいちゃんや、
息子氏に会うたびに「穏やかに育ってる」っていってくれて
むすめ氏に会うたびに「優しい顔してる」っていってくれるおばあちゃんをみていると
二人にとって、
孫である私たち三姉妹と
ひ孫である息子氏とむすめ氏が
どれだけ大切な存在なのか
ただ孫やひ孫が生きていることそれ自体が、
二人にとってどれだけ大切なことなのか
感じることができた。


お母さんがなくなったとき、
おじいちゃんは、
「お母さんが残した三人の孫は、
おじいちゃんにとって宝物や」
っていってくれた。
その意味が、
今すごくわかるようになった気がする。


だからできるだけたくさん、
二人に、ひ孫たちの顔を見せてあげたいなって、
ただ会いにかえりたいなって、
そんな風に思いました。


実家滞在最終日、
そんな二人に誘われて、
息子氏とむすめ氏と一緒に、
おうどんを食べに行ってきました。
おばあちゃんが体調を崩してからは、
おばあちゃんも一緒に車でおでかけって、
もうずいぶんの間いってなかった気がする。


車をおりて、私がおばあちゃんの手をつないで歩いたんやけども。
おじいちゃんの隣に立つと、
おばあちゃんは、
さっと私とつないでた手を離して、
おじいちゃんと腕を組んだ。


腕を組んで歩くふたりを後ろから見ていたら、
なんかね
じーんとして涙が出てきた。


夫婦っていつかこうしてまたもう一度、
手を取り合って、
腕を組んで歩くんやなって、
なんとなくそんな風に思った。


おばあちゃんがおじいちゃんと腕をくんだのは、
おばあちゃんの足腰が弱くて、
おじいちゃんに支えてもらうためやったんやけど、
でも。


おばあちゃんを支えてるのはおじいちゃんなんやけど。
おじいちゃんも本当は、
その手に支えられてるんやろうなって
私は思うのです。


お母さんの入院中、
お母さんを看病しているはずのお父さんが
看病することで、
支えられていたように。


夫婦って、そういうものやんねって、
そのとき思い出した。


どちらかが支えているようで、
本当は支えられていて。
そうやって歩んでゆくもの。


いくつになってもそれは変わらへんねんやろうな。
それを忘れちゃいけない。


社交的でマメでフットワークが軽くておしゃれなおじいちゃんは
なんせモテモテで、
いろんなところに遊びにでかけているけれど、
それでもほんとはおばあちゃんに支えられている部分があるんやろうなって
腕を組んで歩く二人をみていて思いました。


我が家は夫婦。。。5年目?6年目?
忘れたけどまあ、
おじいちゃんおばあちゃんに比べたらまあひよこでもなんでもないけれど。
支えたり支えられたりしながら、
これからも歩んでいきたいなと、
なんとなく思った次第です。


2014年、
私にとっても宝物であるおじいちゃんとおばあちゃんに
よい夫婦を教えてもらいました私は
よいツマになるべく、
オットにたくさんたくさん家事を上手に頼んでいきたいと思います♡
よいツマだわー♡