三姉妹 | はんなり時間

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好きなものについて。
本と、京都と、食と、cafeと、海と、旅と、沖縄と、家族とかについて。


うちの三姉妹について。
私には二個ずつ離れた妹が二人います。
が、生まれてこの方、
「お姉ちゃん」と呼ばれたことは一度もありません。
両親が、
「お姉ちゃんなんやからこれしなさい、あれしなさい」
ということを絶対に言わないでおこう、
と決めていたらしく、
ほんとに一度も言われた覚えはないのですが、
その結果、
このようなてきとうでふざけた長女ができあがったので、
子育てちゅうのみなさまはぜひお気をつけください。


まぁそんなわけでわたしは三姉妹の長女です。
mixi全盛期で始めた頃、ダメ長女というコミュニティに真っ先に入ったくらいにダメ長女です。
どれくらいダメかというと、
大学進学のため上京する前日、
パッキングがとにかくめんどくさくて、
やらずにだらだらしてたら、
「もうまいちゃんいいかげんにして!
荷造りくらいちゃんとして!」と、
怒った妹子たちがすべてパッキングをやってくれた、
というくらいにダメ長女です。
いいですかみなさんぜひ子育ては慎重にお願いします。


そんな私ですが、
三姉妹でほんとうに良かったなぁと、
心底思ったのは、
まぁ上京前日のパッキングもそうなんですが、
おかーさんの病気が分かってからのことです。


おかーさんの病気がわかって、
おかーさんが亡くなるまで、
たった四ヶ月ちょっとのあいだ。
それから、そのあとのこの四年半の間。


おかーさんの病気を知らされたとき、
私は東京で一人仕事をしていて、
なんとも心細かった。
おかーさんが入院してからは、
毎週末京都に帰ったけど、
それは、家のことをするためでもなんでもなく、
自分が心細かったからやと思う。


回復する病気しかみたことのなかった私は、
どんなに辛い風邪をひいても、
最悪のときを乗り越えたら、
あとはただよくなっていくものだと、
それしか知らなかった私は、
治らない病気を目にしたとき、
その日々の絶望感とたたかうのに必死やった。


先週会ったときにできていたことができなくなる。
先週会ったときよりも抱えた腕が細くなる。
成長してゆく命しか見た事がなかったから、
消えようとしている命を目の当たりにすることは
もうただの絶望でしかなくて
気持ちのもっていきどころがなかった。


こわくてこわくてこわくて仕方がなかった。
その頃は電話がなるたびに悪い知らせかと思ってびくびくしてた。
きっと、おかーさんが亡くなってからの毎日よりも、
あのときの毎日のほうが辛かった。
「その日」を待つ日々っていうのは、
たぶん「その日」を迎えたあとの日々よりも辛い。


でも、ほんとうに辛くて、
どうしようもなかったけど、
私自身が体調を崩したり、
心を壊したりせずにすんだのは、
それはもう、
わたしに妹たちがいたからです。


おかーさんが入院してから、
おかーさんの病室で三姉妹で話してるとき、
誰一人として泣いたりしーひんかった。
いつも、いつも笑ってた。
そこには、うそみたいやけど、ちゃんと希望があった。
絶望でしかない毎日やったのに、
そのとき私はちゃんと希望みたいなものを感じてた。


私は最後まで、
もうおかーさんの病気が完全になおって、
家族で今までみたいに過ごすことはできひんかもしれへん。
でももしかしたらちょっと退院して、
一泊だけ温泉にいけたりするんじゃないかな、
と思ってた。
そうでも思わへんかったらやってられへんかったのもあるけど、
それは、
あの病室に、家族が集まった病室に、
なんでか希望のようなものがいっぱいつまってたからやと思う。


おかーさんが病室で、
「パジャマがほしいんやけど、あーく(まんなか妹子)のセンスちょっとこわいから
まいちゃんとなーな(末っ子妹子)でさがしてきて」
とか言い出して、
なにそれひどいって大笑いして、
京都駅で末っ子妹子と一緒に大量のパジャマを買ったんやけど、
まさかの前開きじゃなくて、
結局ぜんぜんつかえへんかったりとか、
お父さんにコンビニで歯ブラシとか買ってきてもらったんやけど、
なんか今ひとつ男の人って気が利かへんからもっかいまいちゃんたちで買ってきてとか、
なんかまあおかんが最高潮にただのわがままやったんやけど、
それをきいて笑いながら
毎日過ごすのが、
ほんとうに、楽しかった。


あーそうやなあ、
おかーさんはどんどん弱っていって
私のしらないおかーさんになっていったと思ってたけど
そうやってなんかへんなところ女子やったり
実はちょっとわがままやったり
ユーモアを忘れへんかったり
そういうのは変わらへんかったなあ。
自分は最後まできっと自分なんやな。


その頃のおとーさんは、
おかーさんの前では気丈といえば気丈にふるまってはいたけど、
まあほんと男の人っていうのは弱いので
結局自分も体調崩して、
おかーさんと一緒の病院に入院した。
しかもおかーさんにばれたら心配かけるからとかいって、
入院してたことはおかーさんに隠して、
病室にいくときはわざわざ着替えて行ったりしてたんやけど、
そっこうでおかーさんにばれてた。
ひどい。


そんなんやったので、
ここは自分たちがしっかりしようとそれなりに思った娘たちは、
というか私をのぞく妹子ふたりは、
ほんとうによく頑張ってくれた。


もし妹子たちと一緒に、
笑い合う時間がなければ、
私だってすぐにくたばってたやろうと思う。
それはきっと、お父さんだって一緒やったと思う。
若い(そのときは若かったんですよええ)
女子三人が作り出す明るさっていうのは
結構すごいもんやなあと今になって思う。
あの日々は本当に絶望でしかなかったのに、
病室はとてもとても明るかった。
たくさん笑った。


おかーさんが亡くなってから、
ばたばたとお通夜とお葬式の準備をする中で、
そういえば喪服がないじゃないかと気づいて、
三姉妹で買いに行った。
そんなときでも
女の子ってね
喪服の試着をして
どれがいいかなあって悩むんだよ。
それ妹子っぽいねって言いながら笑って選んだ。
あのときほんとうに
あー三姉妹でよかったと思った。
一人で、おかーさんのお通夜のための喪服なんて
買いにいけへんよ。
あのときちゃんと喪服を選んだから
お通夜とお葬式で
私たちはしゃんと立っていられたんやと思う。
そう思う。


喪主の挨拶で
おとーさんが、
おかーさんが残してくれた娘三人が
最高のたからものです
というようなことを言ってくれた。
わたしは、
おとーさんとおかーさんに、
三人をうんでくれてありがとう、って
心から思った。
おかーさんに感謝してることはたくさんあるけど、
それが一番かもしれない。
この家族にうまれてよかった。


私もいつか、
息子氏がこの家族でよかったなぁと思える、
そんな家庭を築いていきたいなぁ。
でも息子氏けむくじゃらになるのかなぁ。。。
困った。。。