さてこれは、うちの4歳児が描いた天才的な絵の数々です。
上から時系列に持って帰ってきたもので、
一番下は先週末に持って帰ってきたもの。
一番上は夏頃に持って帰ってきたもの。
さてお気づきでしょうか。
下にいくにつれて格段に成長していくのを。
一番上のは何の絵かわかりません。
たぶんピカソには理解できるんやろうけど、
まあ私もピカソなみに天才ではあるけれども、
ゲルニカ並みの作品はまだ残せていないのでピカソまではまだ遠いのであろう私には、
ちょっと彼(息子氏)の芸術性のすべては理解できません。
でも真ん中は明らかに顔でしょう!
人の顔でしょう!
ちゃんと!
目!鼻!口がついている!!!!!
天才なんじゃないのうちの子!!!!!!
さらに一番したは!!!
身体までついている!!!!
顔から!!!!
胴体と手がはえている!!!!
足はまだない!!!!
おばけだ!!!!!
まあそんなことはどうだっていい!!!!
私はこの作品の数々を見て、
かつて六本木の新国立美術館で見た、
モネの作品展を思い出しました。
あれは私がみた美術展の中で仏像系をのぞくと一番感動した美術展なんやけど。
モネの作品が時系列に展示されていて、
最初は人物画とかも描いていた作品が、
だんだん風景画が多くなっていって、
たくさんの睡蓮の絵につながっていく様子。
時系列でみていくとほんとうに、
それらの作品が「洗練」されていくのがとてもよくわかった。
天才も成長してゆくのだと私は妙に感動したのを覚えています。
そう我が息子氏も!
モネのように確実に成長し洗練していっている!!!
やっぱり天才だ!!!!!
と、私は胸が震えました、まじで。
子どもの絵っていうのは、
こんな風にとてもわかりやすく成長をあらわしてくれます。
そこには結構、感動的な喜びがある。
赤ちゃんじゃなくなって、
まあいっちょまえの人間になって、
もう寝返っただのたっちしただの歩いただのしゃべっただのという、
そういう成長は見られなくなって、
でも幼児たちは、こういうところで成長をしっかり見せてくれる。
でもここでもし、
この絵を、「息子氏の数ヶ月前の絵」と比べるのではなく、
「ほかの誰かの絵」と比べてしまったら。
この喜びにはもしかしたら目を向ける余裕がなくなってしまうのかもしれない。
お友達の絵はもう胴体から足が出てるのに!
うちの子の絵はまだおばけだ!!なんてこと!!!
と、思ってしまったとしたら。
我が子の絶対的な成長を喜ぶチャンスを逃してしまう。
これってものすごくもったいないことじゃないかと思うわけです。
結局なんだってそうで。
この先こういったことはたくさんあるのだろうと思う。
テストの点数が前回よりよくなった。
でもお友達のあの子よりは今回も悪い、とか。
希望してた学校に進学できた。
でもあの子よりも偏差値は低い、とか。
まあこんな極端でなくても、
日常のささいなことでも、
こういうことって起こりがちかもしれないなと、
ふと思ったのです。
でもそういうときに、
ちゃんと、
我が子自身の絶対的な成長に目を向けて、
一緒に喜んであげたいなー
と、思ったりします。
自分自身についてだってそうなんだよね。
SNSで、
たーーーーーーくさんの
誰かの「良い面」の情報が入ってくる時代。
そこが世界の、社会のすべてなんじゃないかと錯覚すらしてしまいそうな時代。
ついつい自分じゃなくて、
他人ばかりに目がいってしまうかもしれない。
でも自分を認めてあげられるのは、
結局自分自身でしかない。
自分の毎日が、
ささやかでも小さなしあわせにあふれていることに、
かけがえのないものであることに、
目を向けてあげられるのは、
自分自身と、そばにいる家族でしかない。
となりの誰かの「いいね!」された生活じゃなくて、
自分の目の前の、
必死のぱっちで子どもたちを追いかけ回して怒鳴り倒して
納豆まみれのむすめ氏を抱きかかえた瞬間におニューのお洋服を汚して
まあそんな毎日に、
目を向けて、
慈しんで、
過ごしてゆこうではないかと、
息子氏のモネもピカソもびっくりの作品を見ながら思う水曜日。
そうまさに!ありのーままのーーーー
(そうですむりやりです)
それで、
納豆でべたべたになったお洋服ってどうやって洗えばいいんですかねー(遠い目)